2021-04-09 第204回国会 衆議院 厚生労働委員会 第10号
たくさん歩いて体を動かすこと、お金を持って駄菓子屋さんに行って自分で選んだお菓子を買うこと、少し難しいけれども挑戦したいと思う気持ちを後押しすること、仲間づくりをすることなどなど。支援が必要でない子は一人もいない、必要でない子は放デイに来ていない。
たくさん歩いて体を動かすこと、お金を持って駄菓子屋さんに行って自分で選んだお菓子を買うこと、少し難しいけれども挑戦したいと思う気持ちを後押しすること、仲間づくりをすることなどなど。支援が必要でない子は一人もいない、必要でない子は放デイに来ていない。
身近な場所で安全に立ち寄れる放課後児童クラブ以外にも、スポーツクラブとか食堂とか教会とか薬局とか駄菓子屋、公園、いろんなところがあると思うんですけれども、こういったところに地域の様々な方が関与して指導員であるとかメンター的な機能を果たしていく、こういうプログラムを地域単位で展開していってはどうかと考えますが、いかがでしょうか。
何か、小学校の隣にある駄菓子屋に行ってお煎餅ちょうだいと言ったらチューインガムを出されて、それでこう、お店のおばちゃんはしらっとしているような、そんな状態があったんじゃないかと。私、ちょっとその後、少し悔しくて、何でちゃんと説明をいただかなかったのかな、そこをちょっと突っ込めばよかったなと思って、そんなことをずっと考えていたんですけれども、もう一度。
もちろん、それは銀行の側の事情としては私も理解できるところはありますが、これによって、駄菓子屋、分かりやすく言えばちっちゃな商店、そういうところなんかは小銭をどうしても使うお仕事ですよね。毎日毎日、小銭を出し入れするお仕事です。
だから、そういったのが現実にありますので、私どもとしては、そういうものが実際に動いている、駄菓子屋さんに限りませんよ、いろいろなもの、お釣りやら何やらというのを見ますと、一円玉だったら結構な量になりますので、そういった意味では、おっしゃる意味はよく分からぬわけではありませんけれども、今これを言われて、ちょっと今の状況、もうちょっと状況を見ていった上でないと、これ以上この場で上げろとか下げろとかいう段階
そういうことをも含めて、あるいは、私も、うちの子供たちが駄菓子屋に行っても、確かに十円以下のお菓子がないわけじゃない。しかし、駄菓子屋においてもほとんどが十円以上であって、市中にも十円以下の品物はほとんどないというふうに考えると、まあまあ、これは、コインとしての、硬貨としての一円、五円というのはある意味役割を終えてきているんじゃないか。
さらに、小規模事業者でいえば、例えば田舎の駄菓子屋さんが、たまたま観光地になったからといって急に外国人が来るようになった、レジ周りを変えた、クレジットカードで決済できるようになった、これを補助金をもらってやりましたと。じゃ、それが一体どれだけ利益を生んだのかはわからないわけです。おばあちゃんの努力もあるかもしれない。外国人がふえたから和式便所を洋式便所に変えました、これは補助金をもらったと。
やっぱり駄菓子屋さんとかであるわけですよね。やっぱりそういうものを大事にするとか、あるいは、先日、沼津、三島へ行きましたけれども、そこにある歴史のものって結構私知らなかったものをまた見付けまして、ああ、まだまだこういうところもっと行きたいなというところがあります。 やっぱりそういうものを地道にやはり情報を発信し続けるのかなと。特に、食は文化としてちゃんと子供たちにつなげていってほしいと思います。
それは、やはり歴史があったり、例えば富士宮やきそばって御存じだと思いますが、あれはやはり工場があって女工さんたちなんかが昔から食べていたとか、そういうのが地元にしっかり定着して、特に子供たちですね、昔の、何というんでしょう、駄菓子屋さんとかそういうところであったというところがまさにソウルフードになっていると。
これはどういうものかといいますと、昔から駄菓子屋の店先にもあるガチャガチャと原理は全く一緒であります。ただ、このガチャガチャが、スマホとかパソコンの画面上でガチャガチャを回す、一回百円とか数百円を使ってガチャガチャを回すと、ころんという、本当にそういう表示で何かが出てくる。
一方で、駄菓子屋さんに納品しますよということで、免税事業者というようなものも資料としておつけさせていただいております。 こういった取引、実はこれもBツーBなんです。駄菓子屋さんは確かにCに売るわけですけれども、課税事業者と免税事業者、お菓子の卸売と駄菓子屋さんの取引を書いているわけでございますが、これは実はずっと変わりません。ですので、影響ありませんということなんです。
だから、商店街の空き店舗を利用してNPO法人が障害のある方々と一緒に駄菓子屋を開く。やってみたら商店街の方々との交流、子供たちや学生との交流も広がる。その中で、障害の特性や障害のある人たちが抱えている困難への理解も広がる。大変学ぶことの多い実践で、こうした活動を継続、普及するような支援も検討できればと思います。 障害のある方が地域の中に溶け込む場として商店街が舞台となったことも注目できます。
そうこうしているうちに、フリーマーケット仲間から、その中にまちづくり団体さんもいまして、一緒に気仙沼市の築五十年の空き店舗を活用して、地元の人たちやあなたたちの活動の拠点に使ってもいいから、そういうふうな人が交流し合う場所をつくりましょうというお話をいただきまして、平成十六年に地元団体さんとの協働で駄菓子屋を運営します。店番は私たちがやっていました。
そういうものを立ち上げて、実は今、十八歳以上の人たちの就労体験の一環として、私たちの活動場所の一角に駄菓子屋をやっています。そこで一番最初に包装紙を作りました。その包装紙、オリジナル包装紙なんですけど、主に障害のある人たちはそれで何をしたかというと、パックを作った、紙パック。難しいんですよ、紙パック。それを使って、まず商品化をしてみました。
小野寺参考人にですけれども、二人から始めた駄菓子屋さんが何でそんなに有名になったのかという、そこのところをちょっと触れていただきたいなと思います。
私は東京の駒場という町の商店街で生まれ育ったんですけれども、こういった商店街の中では、例えば子供が隣近所にちょっと預かってもらったりとか、あるいは、例えば駄菓子屋さんに行って、子供がふだんは十円玉でお菓子買いに行くわけですけれども、それをたまたま一万円札で買いに行ったら駄菓子屋のおばさん注意したりとか、あるいはその親に、おたくのお子さん、ちょっと一万円札で買いに来たけど大丈夫というような、こういったものを
結局、この商店街は、イベントも一過性に終わらず続き、そしてまたこの商店街の真ん中にレトロな、十円で買える駄菓子屋さんとかお菓子屋さん、そしてまたゲームも扱うようなお店ができたりして、ここは今それなりに人の流れがふえている、こういう話も聞きました。 また、その学生はどこに就職したかといいますと、請われて地方の大手銀行、信金、信組、そういうところに就職した学生が約六、七人と聞いております。
それは、土井たか子さんが駄菓子屋のおばさんの格好をしていて、そして、若い女の子が、おばさん、かえてよかえてよ、あめをかえてよと言うんですよ、土井さんがばっと後ろを向いて、変えられないわよと言って、変えません憲法九条、社民党というものだったんですね。これはかなり取り上げられたCMでした。こちらは放送されたんです。
ただ、私は五島列島なり対馬で見ますと、駄菓子屋さんと旅館が一軒あるようなところ、郵便、そのそばに郵便局があります。そこに果たしてコンビニつくったってどのぐらい売上げがあるのかと。
同じような、じゃ、駄菓子屋をつくったらいいじゃないか、何をつくったらいいじゃないかという形でいって、結局、特色のあるところに見学に行ってそれを持って帰ってきて、同じような特色を持ったところが日本全国にたくさんできるものだから、全然特色にならない。そういうような町おこしが今行われているんじゃないかというような感じがいたします。
本当に、おじさん、おばさん、おい、めい、いとこ、近所のだれさん、駄菓子屋のおばさん、もういろんな人がいたから、今だったら万引きですぐ捕まって少年院送りかもしれないのが、駄菓子屋さんでひゅっとお菓子を持ってきても、その駄菓子屋さんのおばさんが来て、さっき何ちゃんがこのお菓子持っていったけれどもと言ってくれて、ああ、じゃあそういうことしちゃ駄目よと言ってという、そういうコミュニティーがあったわけですよ。
ある方がコンビニは昔の駄菓子屋さんみたいなものだと、こういうふうに感想を漏らした方がいらっしゃいましたけれども、それぐらい多くの人がコンビニに集まってくるという実態があると思うんです。ですから、コンビニに掲示板を作って、そこで情報発信をしたりあるいは情報をもらうという、この施策が私は必要だと思いますけれども、このことについてどうですか。
八百屋さんがあって、魚屋さんがあって、駄菓子屋さんがあったり、そういうところがやはり町じゃないですか。 ところが、今そこら辺を人が通らない。だから、これでは町じゃなくなってきているんですよ。だから、私は、そんなところで育つ子供が、本当にこれからの日本を担うだけの人間が育つのかどうか。
もう少し細かい点で申し訳ないんですが、私どもの田舎へ行くと、雑貨屋さんとか駄菓子屋さんなんかというのは、自分のところの家の軒先というか、前の方で店やっていて裏に住んでいるという人が多いんですけれども、これは住宅地区になっていますが、その店舗付住宅のような場合の規制はどうなっているんでしょうか。
昔は、やはり地域に自分の身近な大人がたくさんいましたので、親が多少忙しくて、なかなか家では親とかかわる時間がなくても、地域のほかの大人たち、近所の人であったり駄菓子屋のおばさんであったり、だれでもいいんですけれども、親がかかわれない部分を地域の大人がかかわってくれていた。だから、トータルとしては、子供はかなりバランスのとれた自尊心というものを育てていくことができたのではないかと思っております。